西山本門寺に伝わる「信長の首塚伝説」とは?

織田信長は本能寺で明智光秀の謀反により自害したとされていますが、その遺体は発見されませんでした。遺体は何処に行ったのでしょうか?

この謎に対して昭和54年の読売新聞に「信長の遺体のナゾ 西山本門寺に埋葬」という新説を歴史研究家の山口稔さんが発表しました。

さらに平成12年には歴史作家の安部龍太郎さんが月刊誌「歴史街道」に「富士山麓に埋められた信長の首」という記事を掲載するに至って、西山本門寺の「信長の首塚伝説」は広く世に知られることになりました。

その伝説は口伝として430年の歳月を経て現在に伝えられています。その言い伝えによると、本能寺の変で死んだ信長の首を、変の前夜に信長の前で囲碁対局をした本因坊算砂が原志摩守宗安(西山本門寺の18世日順の父)に対して織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰るように命じ、首塚に柊(ひいらぎ)を植え葬ったといわれています。

西山本門寺の柊の推定樹齢は現在400~500年とされ、年代的にも合致しています。信長の家臣であった原志摩守宗安の父と兄も信長とともに本能寺で自害して彼らの首もこの寺に持ち帰って供養されたとも伝えられています。


また、信長は本能寺で襲撃を受け、相手が何者かわからずに家来に問いただし、明智光秀であると知った時、こう言ったとも伝えられています。  「是非に及ばず(仕方のない事だ)」  信長の最後の言葉としては出来過ぎた言葉とも思えますが・・・・・・




▼ 西山本門寺案内マップ

(地図に埋め込まれたスポットをクリックすると写真が見れます。)




この寺は1344年、日代が開山した670年の歴史を持つ古刹です。 上条大石寺、北山本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺とともに日興門流の「富士五山」を構成します。日代は大石寺を開山した日興の甥で、北山本門寺の二代目でありましたが、北山地頭との不仲により北山本門寺を追われ、西山に移ったとされています。北山本門寺を優遇した今川氏に対して、西山本門寺は今川家衰退の後、この地に勢力を延ばした武田信玄のあつい保護を受けたこともあって、当時は西山本門寺と北山本門寺との間で争いが度々発生してきました。その後徳川家の時代になると20世日圓が水戸徳川家の出身という縁もあって、水戸光圀の寄進を受けて現在の姿になりました。日蓮宗から離脱したり、日蓮正宗に合流したりしましたが、現在は単立の宗教法人となり、宗名を法華宗興門流と称しています。


【 黒 門 】
この寺は、天皇家の位牌を祀ったことから、境内では 敬意を表すために貴賎を問わず参詣者に馬から下りることを求めることを朝廷から許された由緒ある寺院です。黒塗りのこの門の前にはそのことを伝える「下馬札」が今でも掲げられています。

【 参 道 】
黒門から本堂まで距離1km、幅10から15m位の広大な参道が続きます。この間、最盛期には30余の坊がありましたが、現在は浄圓坊・大詮坊・妙圓坊の3坊のみで、無くなった幾つかの坊の痕跡が参道に今も残っています。

【 本堂と銀杏 】
参道を抜けると、左側に樹齢300年といわれている大きな2本の銀杏の木があり、この銀杏に負けない大きさの本堂、鐘楼があります。晩秋になると、落ち葉で一面が黄金色になり、ここで「信長公黄葉祭り」が行われます。

【 首塚とヒイラギ 】
織田信長の首を納めたと伝えられている場所で、そこには静岡県の天然記念物に指定されている樹齢400年~500年のヒイラギの木が植えられています。




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