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源頼朝が1193年に行った「富士の巻狩り」の最中に、曽我兄弟が父親の仇である工藤祐経(すけつね)を富士宮市の白糸の滝周辺で討った事件が日本三大仇討ちのひとつである「曽我兄弟の仇討ち」と呼ばれている事件です。この事件は後に「曽我物語」というストーリーとしてまとめられ歌舞伎や浮世絵等に取上げられ多くの人々に支持されてきました。

マスコミの世界では「人は真実を語らない、ストーリーを語るだけ・・・・」と言われています。どういうことかというと、人はある事件を語るときに、最初にストーリーを設定し、そのストーリーにとって都合の悪い話は捨て去るということです。「曽我物語」の人気は「親子愛」「兄弟愛」というストーリーを語るところにありますが、この事件の詳細を知れば「曽我物語」というストーリーの悪役であった工藤祐経にも「妻への愛情」「義父の裏切りに対する正義」といった同情すべき別のストーリーがあったことに気付きます。5月28日は曽我兄弟が工藤祐経を討ち仇討ちをとげた記念日ですが、その前月(4月)には白糸で工藤祐経供養祭が毎年行われています。

「曽我物語」は事件の詳細を知れば知るほどストーリーとしての面白さや魅力が薄れてきます。人々は単純明快な話を好みます。そのような理由から観光スポットとしてアピールする場合は複雑に絡まった真実を伝える事はあまり有効とはいえません・・・・が、もう少し詳しいことを知りたい方はこのページの最後に「事件のきっかけ~曽我物語までの経緯」として付け加えておきましたのでご参考下さい。


前書きが長くなってしまいました。

それでは、360度パノラマ写真で曽我物語の里巡りをお楽しみ下さい。



▼ 曽我物語の里/富士宮市白糸地区

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地図番号 ス ポ ッ ト 名 情         報
スタート 白糸自然公園
世界遺産富士山の構成資産「白糸の滝」のすぐ近くにある公園で、駿河湾が見えるめずらしい場所です。この公園から白糸の滝の滝壺まで通じている遊歩道が整備され、その遊歩道の途中にも富士山が良く見える展望スポットがあります。車で来る場合はここに駐車すると良いでしょう。駐車場は無料ですが16:00で閉鎖となりますので注意が必要です。

位置座標(北緯,東経) 35.3060776,138.5851814

白糸の滝 白糸の滝
国の名勝及び天然記念物にも指定されている白糸の滝、高さ20m、幅200mの壁から水温は12度、毎秒1.5トンの湧水が白い絹糸のように流れ出ます。滝壺から売店方向に階段を登りきると音止の滝が見える場所があります。反対側の階段を登ると富士山を正面に、滝壺を下方に見ることが出来る展望台もあります。その近くには「お鬢水」という観光スポットもあって、源頼朝が髪のほつれを直したと伝えられています。

位置座標(北緯,東経) 35.3124138,138.5870908

音止の滝
曽我兄弟は討ち入り決行の晩、祐経の宿所の近くにある岩陰に身を隠し、密議をしていましたが滝の轟音で話が聞き取れず、そこで神に念じお願いしたところ、たちどころに滝の音が止んだという伝説があります。

位置座標(北緯,東経) 35.3126068,138.589157

曽我の隠れ岩
曽我兄弟が討ち入りの相談を祐経の陣所の近くのこの岩陰に身をひそめて行ったと言われています。

位置座標(北緯,東経) 35.3135091,138.5901313

工藤祐経の墓
源頼朝による富士の巻狩りが行われた際、このあたりに工藤祐経の陣所がありました。曾我兄弟は工藤祐経の寝所に押し入り、寝ていた祐経を討ち果たしました。

位置座標(北緯,東経) 35.3132273,138.5914241

曽我兄弟の霊地
曽我八幡宮東の小高い丘の上に曽我兄弟の墓があり、この近くに新田四郎忠常の陣所が置かれていました。仇討ちを果たした後、曽我兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、兄の十郎はこの辺りで新田四郎忠常に討たれ、五郎は女装した五郎丸によって捕らえられました。

位置座標(北緯,東経) 35.3037103,138.5991167

曽我八幡宮
源頼朝は若い頃、流人として辛い日々を過ごしたこともあり、親を思う子の気持ちに強く感動し、事件から4年後の1197年(建久8年)、曽我兄弟を祭る神社をこの地に建てました。

位置座標(北緯,東経) 35.3042658,138.5968475





▼ 曽我物語の里/富士市鷹岡地区


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地図番号 ス ポ ッ ト 名 情         報
曽我寺
この寺は「五郎の首洗い井戸」より凡夫川伝いに南に下った場所にあり、境内参道右側に曽我兄弟を葬る墓と、堂内に木像と位牌が安置されています。宗派は曹洞宗の寺です。最初は近くの福泉寺で兄弟の供養をしていましたが、凡夫川の氾濫で現在の場所に移り、天明の頃(1781~1788年)曽我寺と改名し現在に至っているそうです。

位置座標(北緯,東経) 35.1885219,138.651112

五郎の首洗い井戸
兄の十郎は事件現場で殺されましたが、弟の五郎は捕らえられて頼朝の面前で事の顛末を語ったと言われています。その後取調べのため鎌倉に送られることになり護送されこの地まで来たところ、工藤祐経の遺児に斬首を強く請われ、ここで刑が執行されました。打ち落とされた首はこの井戸で洗ったとされています。今では水も涸れて昔の面影はありません。
現在この場所は狭い住宅街の一角にあり非常にわかりにくい場所ですが、下記の位置座標の数字を深く考えずにグーグルの検索欄にコピペしてみてください。


位置座標(北緯,東経) 35.192764,138.6536822



事件のきっかけ~曽我物語までの経緯

 【 仇討ち事件を起こすに至ったきっかけ 】

事の発端は曽我兄弟の祖父である伊東祐親(すけちか)と伊東祐親の従兄弟(いとこ)である工藤祐経(すけつね)との間で起こった伊豆の領土争いでした。

曽我兄弟の宿敵であった工藤祐経は幼くして父を亡くし、領地を引き継ぐと、従兄弟である伊東祐親が後見人となりました。そして工藤祐経は成人になると伊東祐親の娘を妻として迎えました。その後、工藤祐経は京に上り平家の家臣となりましたが、この間に従兄弟であり、義理の父でもある伊東祐親によって、親から引き継いだ領地を横領され、更に妻との仲を裂かれ、離縁されてしまいました。このことがきっかけで工藤祐経は伊東祐親に恨みをもつようになり、暗殺する機会を伺っていました。

ある日、工藤祐経は伊東祐親が伊豆奥野で狩をすることを聞きつけました。そして、刺客2名を伊東祐親のもとに向かわせましたが、伊東祐親を討ち損じてしまいました。その際、伊東祐親に同行していた息子の河津三郎に矢が当たり、河津三郎が死亡してしまいました。この河津三郎の2人の息子が曾我兄弟でした。

【 父親を亡くしてから決行まで・・・】

工藤祐経に殺害された河津三郎の妻は、その後曽我氏と再婚し、兄弟も曽我姓となりましたが、亡き父の仇は忘れることはありませんでした。

工藤祐経による襲撃を逃れた伊東祐親は、平清盛の信頼が厚く、伊豆に流されていた源頼朝の監視役を任されていましたが、こともあろうに娘が頼朝の子を身篭りました。伊東祐親は平家の目を恐れ、娘と子を殺害しました。また頼朝の暗殺も計画しましたが失敗に終わり、頼朝の挙兵後に、富士川の戦いで捕らえられ自害しました。

一方、工藤祐経は元来、平家の家臣でありましたが、源頼朝が挙兵した後は、平家に反意を表して頼朝の御家人に納まり、物語の舞台となる富士の巻き狩りに参加して、事件に遭遇するのでした。源氏が平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝は富士の裾野で巻狩りをしました。曽我兄弟の父の仇である工藤祐経が頼朝の御家人となり、この巻き狩りに同行する知らせを耳にした兄弟は、仇を取る絶好の機会と思い、兄弟はその一行にまぎれ込みタイミングを伺っていましたが、工藤祐経はいつも大勢に囲まれており、近づくことは容易ではなかったため、夜の寝込みを襲うことにしました。

【事件決行】

決行の晩、兄弟は祐経の宿所の近くにある岩陰に身を隠し、密議をしていましたが滝の轟音で話が聞き取れず、そこで神に念じお願いしたところ、たちどころに滝の音が止んだという伝説があります。この場所は現在、「曽我兄弟の隠れ岩」、「音止の滝」として観光スポットとなっています。

曾我兄弟は工藤祐経の寝所に押し入り、寝ていた祐経を討ち果たしました。騒ぎを聞きつけて集まってきた一行が兄弟を取り囲み兄十郎が討たれました。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、取り押さえられたとされています。

工藤祐経が陣を張り、兄弟に暗殺された場所が現在の「工藤祐経の墓」あたりで、兄十郎が討たれた場所が「曽我兄弟霊地」あたりと伝えられています。

【事件後】

翌日、弟の五郎は捕らえられて頼朝の面前で事の顛末を語ったと言われています。頼朝は若い頃、流人として辛い日々を過ごしたこともあり、親を思う子の気持ちに強く感動し、一時は助命も考えましたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡し、現在の富士市鷹岡にある「五郎の首洗い井戸」と伝わる場所で刑が執行されました。

曽我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩りに集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与え、後に「曽我物語」として後世に伝えられるようになりました。

【おまけ】

日本三大仇討ちの残り二つのうち、一つは赤穂浪士の仇討ちであることは、大体想像がつくと思うのですが、残りのもう一つはご存知でしょうか?それは「鍵屋の辻の決闘」といって、事の発端が今風に言えばニューハーフをめぐる三角関係が原因の事件です。当時は地位の高い武士の間で男色が公然と行われていたそうですが、一般大衆にとってこの手の話は興味が深く、歌舞伎や浄瑠璃によって広まっていったのだと思います。






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